日記みたいなメモ 2026年2-3月
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2026/3/31
https://gyazo.com/33e7dd58e8dcb19bb5ac0ceb2c011faa
友人が教えてくれるまで知らない作家だった。シュルレアリスムの作家には子供の頃からある程度興味があったはずなのに。 印刷やネットで見るよりも原画を見たほうが圧倒的に面白い作家。マックス・エルンストの絵や、ふたりが生活していた家のレリーフなども見られた。家族写真を見るに裕福な家庭で育ったのだろう(※あとで調べたところ家は繊維業を営んでいて多くの使用人のいるような屋敷で育ったそう)、子供の頃の絵手帳もきれいに残されている。 この時代、思想家や画家、詩人や彫刻家、音楽家など名だたるアーティストたちの交流が盛んで、影響を受けたり愛憎があったりしつつ生活そっちのけ(に見える)で表現を発露させていったんだろうなと思うと、羨ましくもある。
パートナーでもあったマックス・エルンストや当時のシュルレアリスト達のミューズとして語られることが多かったが素晴らしい作品を多く残している。考えたら私自身もシュルレアリスムの作家といえば男性ばかり思い浮かべるけれど特筆すべき作家はたくさんいるのだった。Carringtonは女性芸術家の地位向上にも声を上げたひと。
https://gyazo.com/fed8b9ca11c3145ce4dff60811fa0720
ケルト神話や夢、錬金術的な世界と現実世界で困難を味わった彼女の精神性(芸術家として生きることを許さない家族、第二次世界大戦により引き裂かれる精神、女性として生きること、亡命の経験など…)が一体となっていて興味深かった
https://gyazo.com/ae0e3e6c05eac1d25796fa70aa872c37 https://gyazo.com/a30f530a4fcf3605dabc571d15b45f52
3月が終わるのでこの日記の書式をどうしようかちょっと迷っている。一番良いのは1日1ページにする方法かと思うのだけど(リンクがその日の日記の真下にきてCosenseの性質を活かせる気がする)個人ページをどんどん増やすのも申し訳ないからやはり1ヶ月単位で1ページ書くかんじかな。それかもしくは、もうずーーーーっとこの1ページに書いてしまうか。いちページにすべてが結集しているというのも悪くないかもしれない。日記の下の方を見返したい人など稀だろうし(私は見返さない)。
とはいえやはりリンクへのアクセスが混雑しすぎるから4月には新しいページを作ろうかな。
日記って、こうしてどこにどのように書くかを迷いますよね。
🍽️たっぷりカレーを作る。人参、じゃがいも、さつまいも、玉ねぎ、セロリ、マッシュルーム、生姜とにんにく、肉いっぱい。
2026/3/29
友人宅へ。こぢんまりとはしているが心地の良い一軒家。リビング・キッチンも寝室もまさにちょうど良い大きさ。屋根裏はまっすぐ立てないくらいの高さだけど隠れ家みたいで良い。地下室はまだかび臭くて真っ暗で薄寒かったけれど、住んでいるうちに彼女っぽい何かになってゆくんだろうな。カイピリーニャが美味しくて、飲みつけないくせにぐいぐい飲んだから眠くなってしまった。アルコールが入ると寒くなるたちなので眠いやら寒いやら。おなかもいっぱい。鶏の心臓を食べた。しょうもない日本語を教えて笑ったり、政治や家族の話をしたりした。
深夜に家に戻ったら3時半を過ぎていた。サマータイム。そのため今日は思い切り寝坊。寝坊したものの食材だけは買いに行った。
とあるやりとりを見ていて、VCをまったくの無言で使うことを不快と感じている方もいるのかもしれないと思った。様々な人が集まるからこそそれぞれの使い方を許容してもらえるかもしれないと考えてきたけれど、自分本意な解釈だったかもしれない。
2026/3/27
携帯のカメラが壊れたのでコンデジを持ち歩こうかと引っ張り出したが、液晶画面を見ながら撮影するのがどうも性に合わない。写ルンですくらい素朴に写してくれたらそれでいいのに。見えているように写すのが一番むつかしい。人間の目は優秀だから。フィルムカメラはもう使えないし(フィルムも現像代も高すぎる)でかい一眼は持ち歩きくないし、この古いコンデジを使いこなすしかないな。設定を見直してみよう。
とある劇団の内部の話を聞いて、ハラスメントの構造について考える。人を極限まで追い込んで初めて輝くものがある、というのは確かにそうかもしれないが(それを輝きと呼ぶかについては個人的には疑問があるけれど)、でも私はそういう職人芸でないものは見たくない。そんなものに頼らずとも突き抜けた表現はあるから。
2026/3/26
気持ちよく晴れているから散歩がてら荷物を取りに行こうと外に出た途端に空がかき曇り、雹が降り出した。すぐに止むだろうと思ったのに行き帰りずっと降られて、室内に戻る頃に降り止んだ。
「雹」と書いたけれど小さかったからあれはあられと呼ぶべきみたいだ。直径が5mmを越えると雹なのだって。
https://www.youtube.com/watch?v=n_RJqI95E3k
展示もあるので行くつもり。
2026/3/25
窓を雨が激しく叩きつけたり、青空が広がったり、枝が乱暴に吹かれたり、また雨が降ったり、雹が降ったり、夕焼けがひろがったり、またばたばたと雨が降ってきたり、目まぐるしく天候の変わる一日だった。
2026/3/24
生ブロッコリーとさつまいものサラダと、人参と卵のサラダ。
話題になっていた短編の動画を見たのだけれど、エフェクトを集めたところで創作が終了しているような作品だった。
ディズニーやジブリのアニメの動きはリアルなものから遠くてもそのものの動きとしての理がある。例えば出来の悪いAIはリアルなものに極めて近いけれども何かそれらしきものの集積であって、個としての一貫性がない。だから違和感がある。そういう類の違和感をそのまま残している、そればかりかそれを「観客に違和を感じさせる効果」であるとしている作品を見ると、この作家は世界の観察を怠ってきたんだなと思う。創作における作家の身体性はその先の作業の過程で煮詰められてゆくし、ここが美味しくて面白いところなのにな、と。
なんで悪口みたいなこと言っちゃうんだろう!いやですね。
🦵メニュー作成:膝捻れや外反母趾、O脚、股関節のつまり、腰痛向け。くるぶしのマッサージと開放、足首の動き学習、腸腰筋意識/ストレッチ、内転筋群トレーニング/ストレッチ
2026/3/23
荷物を取りにいくついでにヨーグルトを買う。ブルーベリーの冷凍したものが欲しかったがラズベリーしかなかった。
レジの方は私の商品をスキャンする間もずっと若い店員だか息子さんだかにどこに行くのか、明日は来て働け、何時に来るのか、来るのか来ないのか、どこに行っていつ帰って来るのか、明日は来るのか、一体どこに行くんだ、今日はもう働かないのか、明日は働くのか、と問いただしていた。ふふふ、と微笑みつつレジを終える。
2026/3/22
週末が良い天気だと心が明るくなる。
昨日の打ち合わせのことが少し胸を重たくしているけれど、もうせめて自分だけでも良い働きをして、他の演者と観客のかすがいになるしかない。どうして私だけひとりで演じながら演出を同時進行でやらなければならないのかといつも思うけれど、そういう役回りをあまりに多くしてきたので、きっとなんとかできるだろうとも思っている。観客にとって「まあまあよかった」のラインを下回らないレベルに引き上げることはできる。でも私がしたいのは、もっと魔法みたいな舞台なんだけどな。
…でも愚痴は終わり。
2026/3/21
打ち合わせ。フィルハーモニーの屋上が気持ちがいいので向かったが締切になっていたので中庭にて。
お互いの仕事のやり方が全く違うので最初話がずいぶんと食い違う。相手は私の仕事を見て依頼してきたけれど、私は相手の仕事を見たことがないので私の方の見通しが立たないのは当たり前だが、相手は事前に計画を立てられたはずだ。それなのにまったくこちらの力量を見誤った場所から話がスタートしたので、何を言わんとしているのかがさっぱり分からなかったのだった。
すぐさま修正して話をするけれど、締切まで3週間を切っているのに一切の詳細情報がないため、まずはそこを確認して、2日間でそれを成り立たせるためにそこにいるプロフェッショナルたちをどう動かし、どう構成するかについて話そうとする。聞けば即興的なものであるとのことだけど、音楽家と踊り手が複数いて、公演時間は1時間から1時間半、どの曲が演奏されるかは前日にしか分からない、照明の有無も不明。内輪のジャムセッションならこのままでも成り立つけれど舞台公演として成り立たせるにはタイムラインをしっかり組み立てないと無理だと判断する。
しかし相手は精神論や理想のイメージの絵コンテを描き出す。全体の構成をどうしようと思っているかと聞いても、ここは波をイメージして動くとか、ここでは重力がテーマとかいう話になって、それはもう当日各演者が本人たちの力量でやれば良い話で、それを乗せるための建築物が必要なんだと話すが、そんなに心配しないでも大丈夫、リスクがあってこそでしょ!というような話になってしまう。あと半年あればイメージのすり合わせをゼロから進めても良いけれど、実際は本番を入れて2日しかない。イメージのすり合わせはもうすでに言葉によって、または人選によって済んでいるとして実際の構成に話を進めないと絶対に間に合わない、絶対に成り立たない。
創作は、頭の中でイメージを膨らますだけではできない。言葉で説明し、語れることだけでは組み上がっていかない。手や体を動かしてみて実際それがどう見えるのかを検証し、組み立ててはひっくり返し、視点を変えては修正し、…その繰り返しだ。その繰り返しが1日でせめてできるように、実際的な話をするしかないと私は思うのだけれど、哲学を語るばかりでいっこうに段取りの話に入れない。またしても演出家が不在なのだった。何故演出能力のない演者たちが全体の見通しもないのに舞台を作れると思うのか、ほんとうに全然分からない。映画だって俳優が寄り集まっても完成するわけがなくて、監督が全体の絵を知っており、どのように演出したらその絵や、それこそその感触、その哲学が観客に伝わるのかを緻密に組み上げたからひとつの映画となる。何故一度も舞台を作ったことのない人達が寄り集まって舞台を作れると思うのか分からない。ほんとうに全然わからないからいつも「出来るから舞台を作ろうとしているんだろう」と勘違いしてオファーを受けてしまう。
相手は最悪ぶっつけ本番でもいいと思っている。でも私は、会ったこともなくこの手法に明るいかどうかも分からない人たち相手にぶっつけ本番なんてうまくいくわけがないと経験的に知っている。そういう失敗を100も見てきた。それぞれの分野の能力が優れていても、即興的なものが真に噛み合って魔法を起こすなんてよほどその即興的な能力に長けていないと無理で、ほとんどの人はそんなに高い即興能力を持っていない。彼らの専門分野で発揮できる能力と、即興的能力とは、必ずしもというかほとんど一致しない。
お金をもらって見に来てもらっているということを甘く見ている演者が多すぎる。
2026/3/20
机の役割を果たしていない机がひとつあったので使えるように移動した。照明をひとつしまい、2つ移動する。ひとつはモロッコで買った皮がシェードのランプなのだけれど光があたたかく雰囲気が良いので穏やかに過ごしたい時用。
2026/3/19
世界がイスラエルとアメリカを批判する流れになっているにも関わらずこうまでしてアメリカに追随することで、日米の間にある関係はまったく同盟などではなかったのだということが露呈している。もちろんそれは既に世界中が知ってはいたのだけれど、表面上は同盟国であるということに一応なっていたと思う。でもアメリカはもうその建前を守る態度をかなぐり捨て、今はどこまで日本を揺さぶれるか、どこまで本来の家来としての役割を全うしてくれるかを試している。世界の目の前で。
ここでどういう態度を取るかに、これから経済的には確実に急激に傾いてゆく日本の未来がかかっていると思う。
ガザやレバノンやテヘランに攻撃があって人々が亡くなるのも耐え難いけれど、イスラエルの人々が攻撃されて亡くなるのだって耐え難い。イスラエルのやり方は許せないが国と国民とは別だ。そんなこと言わずもがなだけれど、それなのに、イスラエルが国家として痛い目を見ない限りこの虐殺は終わらないかもしれないなどと考えてしまうことがある。国が痛い目を見るとは市民が苦しむということに等しいのに。
戦争はこのように根本から歪んでいる。歪んだ土台にある正義も理も虚構だ。
世界には紛争が絶えない。その殆どを私は注視せずに過ごしている。そんな人間が「戦争反対」なんて言葉を掲げてもな、とも思うけれど、そんな場所にいる人間くらいしか理想を叫び続けられないかもしれない。綺麗事と言われてもいい、言い続ける。戦争に断固反対する。戦争は罪だ。戦争を誰にも味わってほしくない。どんな人のことも、どんな理由があっても、殺して良い状況を作ることに反対する。
自国の政治の歪みを他の国に訴えて安易に解決しようとすることは、他国による独立国への介入を許す事態に繋がりかねない。
世界のあちこちが戦火で焼かれている中、その混乱に(まだかろうじて)巻き込まれていないにもかかわらず自立しないでいる情けなさを自覚しなくては。
2026/3/18
ほとんど雲のない明るい空。太陽は色んなことを解決してくれる。洗濯物も乾くようになるし、植物も元気になるし、朝起きるのを手伝ってくれるし、外を見るだけで気持ちが上向く。
近所にはムスリムの方が多く住んでいるのでスーパーや肉屋には中東や北アフリカの食材がたくさん売っている。鳥の丸焼きがスパイシーでとても美味しいからそれを目当てにやってきたのだけれど、今日はもう終わってしまっていたので他のお惣菜を買った。春巻きの皮に辛口の鶏肉や野菜を包んだものと、ピザ。どちらもちょっと脂っこい。
最近のTwitterにはアフリカや中東の方が郷土料理を紹介してくれるTweetが多く回ってくる。真似して作ってみたいなと思うものがたくさん。
建物の西の面がすべて薄紅色に染まっている。夕焼けが低いところで起こっているんだろうな。ここからは青空しか見えないのに。
2026/3/17
昨日のカレーをスープにする。人参と卵のサラダも作ろうかな。明日は肉を買ってこないとタンパク質が足らない。
6月の展示はオーガナイザーの手違いで中止になったらしい。仕方がない。5月のレジデンスは返事待ち。4月の舞台はそろそろ構想を入れないと、明日連絡する。
4月までに終わってしまう展示、一緒に行きたい友人がいるので誘う。もうひとつ行きたいものがあるんだけど、興味のありそうな人がぱっと思いつかないな。思いついた人は異国に住んでいる。
いたずらに時間を過ごしてしまってクラスメニューをまとめていないことに気づく。指先から始まって足の裏と踵の連動、内転筋と膝のねじれの関係、最後に股関節の運動を遊びみたいにできる時間を作ろう。30分で立つ感覚が変わるはず。
2026/3/15
自分をブロックしているものごとについて書き出す。何が不満で、何が悲しくて、何を足りないと思っていて、何には満たされていて、社会の中ではこうあらねばならないけれど個としてありたい姿はこうで、感じている歪みは何なのか、それがただの甘えなのか、心から求めることなのか、ほぐしようにもほぐせないものごと、子供っぽくすねているだけなのか、頭が利口に諦めてしまっているけれどそれは必要なことなのか、何を待っているのか、どこかに置いてきてしまったものはほんとうにもう私の中にはないのか、最も得難いと感じているものこそが私を淋しくさせる、人生で出会った宝みたいなことこそが一番胸を抉る、だけどそうして清濁併せ呑むことでしかたどり着けないことも好きだし
なんだか今日はお日さまがまぶしいな
個人Scrapboxで続けている日記には #03-15 のように日付でリンクを張っているので去年の今日、一昨年の今日、5年前の今日自分が何をしていたのかが分かる。去年の今日は『文化の脱走兵』を読み始めたらしい。あれから一年も経った気がしない。 体をすみずみから順番にほぐしながら耳で読んだ。少しずつ味わって読みたい。
この本の冒頭で、岡本太郎氏は、優れた文明は滅ぼされる、滅びてこそ輝くものだ、とおっしゃっている。製薬会社の社長さんが、その滅びた文明の遺跡を一目見て、並々ならぬ決心をなさって、現地に行かれ写してこられたという。わたしたちは居ながらにして、このような偉大な文明に触れることができる。何という幸せだろう。珠にもわたしは、この本の刊にされた翌年に「苦海浄土』が上梓され、水俣病問題に溺れ込んでいたので同じ頃に出された特田氏の御本に四十数年後にめぐり会い、感銘ひとしおなのだが、いまはそのことよりも、持田氏のこの本を、早死にした国人しゃまにも見せたかった、としきりに思われて仕方がない。
2026/3/14
天気雨。
お土産として頂いた石鹸をおろす。ヴェルヴェンヌの香り。
ドラマ「教場」を見ているのだけれど、何か決定的なヒントが浮かび上がってきたときの効果音に毎回笑ってしまう。「ここ見逃せないところです!」って誰かが指を立てて教えてくれているみたいで。
人の日記を読むのが好きなので、ここにある日記も楽しみに読んでいる。みんなそれぞれが日記を書いてほしいな。
2026/3/13
https://gyazo.com/2816f1a752fec3ba876df3c156cdb3dc
天気だったら自転車で行こうかなと思ったけれど風も強いし雨模様なので電車にしようかな。このところすっかり春気分だったけれど、まだ冬なのだった。
https://gyazo.com/22897c4ddf6ed364937b16e3ac6832e1 https://gyazo.com/e396921ac3c72aa4082a1111e188e6f4 https://gyazo.com/110169a89a1c9a307e975a770f5a70b0
以前自然史博物館でコレクションのうちのいくつかをみたのだけれど、いつかすべてのコレクションを見られる機会があったら絶対に行く!と思っていたのだった。今回見られたのはもちろんすべてではないけれど、十分な量があって、満足。
でも立体は触れたり、持ったりできたらいいのになといつも思う。絵画は眺めるだけでもいいけれど立体物は温度や手触りや肌の動きを感じたい。
石で彫刻をする友人と行ったのだけれど、ものづくりの視点、起源のようなものが少し近くて話していて楽しかった。
2026/3/12
朝から像と少女の動画を見て顔がほころんだ
すべての人が言葉で何かを表明しなければならないわけではない。でもSNSはすべての人が言葉で何かを表明しなければならないと思わせる。言葉という形で表明すべき立場の人は確かにいる。でもものごとに触れるやりかたはそれぞれで、言葉を介入させることでその世界が壊れることもある(よくある)。または、それを指し示しているとは気づかないほど遠くから辛抱強く照らすやりかたもある。今すぐみんなに届く言葉で戦うことだけがすべてのような空気をSNSは作りやすいから、自分がどの深さのところにいて、どの時間軸を視野に入れてそれに取り組みたいのか、自分で選ばないと。
友だちにメルロ=ポンティの話をしたら「ワインの銘柄?」って言ってた。きっとそう😂
2026/3/11
あれから何年、とやはり数えてしまう。そのあとにも(もちろん前にも)大変な災害はあったのに。
さっきまで雨を降らせていた厚い雲の隙間から濃い空の青が見えて、一瞬夏みたいな気がした。今年始めて夏みたいな気持ちになった瞬間。
西の空の青が紺色じゃなくて深い緑色に暮れていく日があるけれど、今日がその日だ。
どんなに誠実に一緒に時間を重ねたつもりでも、ちょっとした言葉尻に躓いてそれまでの関係を丸ごと破り捨ててしまうタイプの人がいる。そもそも言葉なんて大いに誤解を含むものだし、もののはずみとか、言い間違いとか、受け取り間違いとか、いくらでもすれ違いを生む瞬間はあると思うんだけど、でもそれまで積み上げてきた信頼に比べたら私にとっては「たかが言葉」であって、この人ならそんなつもりで言ったわけではないであろう、または私の方が間違って受け取ったのだ、と真っ先に考えるけれど、そういう手順をまるきりすっ飛ばして、これまでの信頼関係を全部忘れて、いきなり山ごと崩してしまう人もいる。
いくらでも言い訳はできるけれど結局は、こちらが見積もっていた関係はそこにはなかったわけで、そしてそれを是が非でも修復したいとすがりつく気もないわけで、まあ、ここまでだということなんだろう。
言葉のことを、みんな信じすぎじゃない?
✏️ずっと避けて通ってきた苦手な文法に手をつけ始めた。もうほんとうにずっと何となくで通してきたところだったので、身にしみるくらい練習しておこうと思う。これがわかれば読解の助けにもなるし、日常会話でもがちゃがちゃしないで済む…はず。何故早くやらなかった。
2026/3/10
気軽な動画でも見ようか、としたところすぐに始まったCMを種に延々と議論をはじめてしまって気がつけば1時間が経っていた。このところそういう感じのことが少なくない。
対処療法をしようとしている人と根治治療をしようとしている人とでは見えている景色そのものが違うから、どうしても話が通じ合わない。本当にリベラルな意見は今の風潮から見ると弱い立場を切り捨てる暴力性があるように見える。…みたいなこと。
話が濃く煮詰まっても、視線を世界に戻すととたんに肩が落ちる。
夕方の西の空を楽しめるのがこの部屋の良いところだ。
📖『地上で僕らはつかの間きらめく』を少しだけ読む。
p211 "大事なのは、僕は自分の悲しみを人に奪われたくないということ。自分の幸福を人に奪われたくないのと同じように。"
言葉でそのひとのことを裁くのは簡単だけど、心は切り捨てたもののことを諦めきれない。
三章は走馬灯みたいに、弾け飛ぶ火花みたいに、何度も叩きつけるこぶしみたいに、瞬きのたびの景色みたいに、あちこちからやってくる追憶。何度思い出してもたどり着かない。もし思い出せても取り戻せない。
✏️語学、ニュースを15分だけ。
2026/3/9
何かを始める時に、最初から習おうとすることで起きる弊害について話をした。こういう話も、大多数の人間をそのひとがどうとらえているかによって話の前提が変わってくるので、それが共有できてからじゃないと話すのが難しい話題だなと思う。
レジデンス招聘についてのやりとり。招待者が多い上に個人的には日程の制約もあるのでどうなるかな。もしOKが出れば7年ぶり。今回は他者の観察からの制作になるかな。
📖『地上で僕らはつかの間きらめく』を少しだけ読む。
2026/3/8
朝市への道すがら、米イスラムに対して怒っているインタビューを大音量で流す家やいつもよりも大きめに音楽を流している家があって、こういう共有の方法もあるなと思う。
ウクライナやパレスチナのことも数ヶ月は逐一追いかけていたが今や情報にアクセスする頻度も減っている。状況が変わらないことに、そしてあまりにも非人間的な場面の連続に疲弊して、そこから身を遠ざけようとしているからなのだろうけれど、そうやって結果的に無関心な態度をとることこそ侵略側の思う壺なのだということも知っている。
Twitterはおすすめタグを長くスクロースし続けるほどにどんどん自分の関心とはかけ離れたツイートばかりが流れてくる。時事だけを追うためのリストを作った。
全然本を読んでいなかった。
しばらくaudibleで速いスピードで詰め込むように読んだので自分の許容量を超えてしまったのかもしれない。何にせよ、それをすることの意味を見失ってはいけないな。
山本貴光さんの「読書会のたのしみ」というブログを読んだ。 私もひとりじゃない感じでできる読書のかたちを欲している気がするのだけれど、ちょうどいいそれを見つける労力を惜しんでまだなにも踏み出せていない。自分の能力を棚に上げてうんと理想が高いから、何事も始めきらない。 #読書会 p113あたり
虹彩の色についての描写があるといつもある友人を思い出す。彼女の虹彩は光の当たり方によって色が変わって見える。グレーだったり、赤っぽかったり、薄紫だったり、オリーブだったり、アンバーだったり。彼女の母国は彼女が生まれた頃とは別の名前になった。みんなで何度も、彼女が小さくて可愛いミスをした舞台のビデオを見返したのを思い出す。
久しぶりに紙の本で文字を追ったが、そうするとすぐに、どうして本を読むのが好きなのかがすとんと落ちてくる。こういう風な漂い方をすることが私にとってはとても大事なことみたいだ。
2026/3/7
昨日の記憶がない。
2026/3/5
リハビリのためのマッサージとトレーニング。内転筋を伸ばしてしまったため骨が軸から離れ、捻れて使う癖がついている。4月までに治さないと。
蕎麦を食べてから散歩に行く。考えたら最後に一緒に散歩をする時間が取れたのは去年の秋のことだったかもしれない。町の小さな公園に行くと桜が八分ほど咲いていた。暖かくて明るい。首のところだけが朱色の真っ白なオウムが桜の木の枝にとまってなにやらしきりとおしゃべりしていた。そばにいる飼い主の肩には対象的に真っ黒なオウムがとまっていて、尾羽を広げると熾火のような色が隠れていたことに驚く。なんて素敵な配色なんだろう。白いオウムは桜の花をくちばしでもぎ取っては地面に捨てていた。やんちゃなようだ。
白樺の木のそばに座り子どもたちが遊ぶのを眺めていた。逆立ちばっかりしている中学生くらいの女の子、電話をしながら芝生の先の尖った部分の感触を手のひらに楽しんでいる女性、目が回るんじゃないかと心配になるくらいに同じ場所を小さな自転車で巡っている男の子、追いかけっこをしている鳩のつがい、弁当を広げる男性。平和だった。
帰り道には大きなお店で日用品を。いい匂いのボディソープとか食器洗剤とか大きな洗濯石鹸とかロシアのアールグレイティとか大きなポテトチップスとか。化粧品の列でおばあさんが高いところにある2Lくらいのボトルを今にも落っことしそうになりながら取ろうとしていたので取ってあげると、これはこんなに安いのに半年は保つのよと教えてくれる。蓋を開けて匂いを嗅がせてくれたのだが柑橘系の爽やかな香り。これはなんですかと訊くとこれを綿棒につけて耳の後ろと耳の前を拭くのだと言う。半年は保つからお買い得だとしきりと勧めてくる。いらないかなと思ったがすぐに棚に戻すのも悪くてずっと興味があるふりをしてボトルを眺めていたらおばあさんは戦争の話をしだした。船が爆撃されている。戦争はこうして永遠に終わらない、と言う。そうですね、ほんとうに。永遠に人間は争うんですねと答える。
会計の時、シャンプーのバーコード読み込みができず店員さんが商品棚まで値段を見に行ってくれた。すぐそこの棚なのに5分ほど待った挙げ句「この商品は棚になかった」と言うので一緒に棚までついて行って5秒で見つけてあげた。
店から出たら信号の向こう側に右肩がだんだん溶けていくみたいに急速に傾いていくおじいさんがいて大丈夫かなと心配になったけれど、なんともないようだった。
猫によく出会える小道を通ることにした。入り込むとすぐに猫を発見したのだけれど、こちらを振り向いては逃げ、振り向いては逃げしながら距離を保ち、途中の家の柵にするりと入っていってしまった。
https://gyazo.com/1ab5d9c86cc7d087fa1f3ab2e74a57bf
2026/3/4
何かを言葉にするのがどんどん難しくなる。自分が足らない言葉で何かを言わずともいくらでも専門性の高い言葉にアクセスできる。けれどここは日記なので、日記くらいは自由に書いてもいいかもしれない。大きな出来事があった時にはなおさら。
戦争が始まった、というふうには言いたくない。ひどいことは今に始まったことではない。どこかで誰かがいわれもなく殺され続けている。私が知っている限りでもそうだし、私が知らないことなんてその何百倍もある。それにこの出来事を戦争と呼びたくもない。戦争と呼ぶにはあまりに不均衡だと思うから。
仏大統領は来たるべき未来のために核兵器を増やそうと思うなどと言うし、日本はあいかわらず米国の腰巾着だし、誰にも矜持がない。人類は歴史からひとつも学ばない。悪いことは隠されて行われるのだと思っていたけれど、世界中の人が注視しているその前で堂々と行われている。多くのひどいことがこんなふうに開示され続け、見ている私たちにはそれを止める術もなく、絶望が深まる。
人間は滅びたほうがいい。となかば本気で思っているけれど、そんな言葉をここにぶつけても仕方がない。
ドイツから友人が遊びに来た。ドイツに住んでいたことがあるよと話したら、住所を聞いたら近所だった。戦争はずっと昔に終わったと思っていたのに当時そこはまだ東ドイツの名残があった。
戦争は全然過去のものじゃなかったし、今ではなおさら、過去のものじゃない。
以前関わっていたマークのデフィレを見る。だいぶデザインの色が変わったな、と思ったらディレクターが交代するのか。かなりなんというか、尖ったところ、奇をてらったところがなくなった。大人し目で特徴がなくなったとも言えるかもしれない。これから洗練されていくかんじなのかな。
2026/3/3
人と人との間を行き来する、みたいなことから身を離していたら、人と人との間だけに存在する私のことを忘れてしまった。自分ってそういう感じだなと思っている自分だけと一緒に生きていくのは時々窮屈だ。自分のなかの強い性質が石灰化するみたいにカチコチに凝り固まって、身動きできる範囲が減ってくる。そういう時期を経て自分はそういうたちなんだなと気づくことも悪いことではないけれど、いい加減そればかり目の当たりにしていると倦んでくる。
作家の友人を地方の本屋さんと繋げるためのメールを作る。新刊を出した作家が本屋さんで談話をするイベントがどういう風に成り立っているのか分からないし、友人だからといってお願いというか提案するのは失礼かもしれず気が引けたけれど、町の文化を担うような活発な本屋さんだったので良い縁になればいいなと思ったし、また、きっとしがらみ抜きにお返事くれるんじゃないかなと思える相手だったので。
大統領演説を見たがこんな腰砕けな国だったかなといつも思う。
2026/3/2
自分はいつどんなことがあっても仕方がないなと諦められるけれど他人のことはそうではない。無事に帰ってきてほしいと祈るとともに、こんなことを祈るのは縁起が悪いような気もして、嫌なことが起こるかもしれないというイメージを沈めて、ぼやけさせるように試みる。
2026/3/1
3月。
毎日暖かい。こんなに早く春っぽい気持ちになっていいのだろうか。
市場へはぺたぺた歩いて行った。ひとりの時は自転車で行くことが多いけれど今はハンドルの操作に不安があるから。人参を二束、ビーツ一束、小ねぎ、ほうれん草、セロリ一株、じゃがいも、玉ねぎ、オンディーヴ、パプリカ、カブ、大根、キウイ5つ。時間が遅かったから肉屋さんは品薄で羊と牛ばかり。とりあえず何も買わなかった。卵も豆腐もないからタンパク質をどうしよう。豆乳しかないな。
パレスチナ問題の時に語学の勉強を兼ねてこまめにニュースを追っていたが、久しぶりに時事問題を取り扱っているYouTuberのチャンネルを聞いてみた。少しは聞き取りが上達しているかと思っていたのにほとんど変わっていなくてがっくり。
日本語も子供の頃は人の唇を読まないと理解ができなかったので(音は聞こえている)、外国語が言葉として聞こえなくてもあまりがっかりし過ぎないのがいいとはわかっている。日本語は今は多少環境が悪いところでも聞き取ることができるようになったのだから、外国語も少しずつ聞こえるようになるはず。でも、ため息がでます。
2026/2/28
🍽️豆乳と米粉麺で適当に済ませる
イランとの戦争がはじまった、とSNSには流れているけれど、もうどの時点でこれがはじまっていたのかよくわからない。パレスチナ問題の時にもすでにアメリカも関わった攻撃はあったし、ガザ地域の空爆のことを考えたらこの何千倍もの被害だし、この先振り返ってもいつが境だったのかなんて定められない。
2026/2/27
いっぱい本を読もうと思ったのに掃除と些末なことで終えてしまいそうだ。
舞台の世界でもそうだけど、作品が過酷であればあるほど、ちゃんとフィクションなんですよという保証をしてくれないと。
2026/2/26
直接会ったことはないが評価していた人がSNSに数人いるが、この数年でどうにも興味を惹かれなくなってしまった。この変化の後ろに何があるんだろうと時々考える。
自分の方に大きな環境の変化があったことが原因かもしれない。その方たちも年を取ったからかもしれない。それが書かれる場の前提が変わってしまったからかもしれない。「良い言葉」みたいなものをそれだけ量産することへの不信感は、言葉というものに対する不信感と結びついているから、やはり私の方が変わったと見るのが実際に近いのだろうな。
言動が気に障るなと思っても、本当にその人を知っているわけでもないのに崇拝していた自分を思い知り、本当にその人を知っているわけでもないのに断罪しようとしていることに気付けばいいのだと思う。憤慨したり、裏切られたような気持ちになるとしたらそれは、これまでの言動の中の違和感を見逃していた自分への不甲斐なさみたいなものにこそ関係があるかもしれない。
2026/2/25
2月だというのに暖かい。今日は最高気温が20℃にまで上がるそうだ。あちこちで新芽や蕾がふくらみもうすぐ春という様相だけれど、私は騙されない。この国は5月までは冬だ。
(イ)さんの日記に5年日記のことが書かれているが、私はCosenseの個人ページで同じようなことをしてる。 2026/2/24
運転している友人が大きな音で音楽をかけて、その音の震えと車のスピードと風を切る音が嵐のように身にやってきて、心臓が回転を上げる。体のこわばりをときたくて自分に「大丈夫だ」と話しかけるけれど、大丈夫になれたことがあまりない。大丈夫だよという言葉は少なくともこういう時には役に立たないみたいだ。「よし、狩りに出かけるぞ」の方が体はほどけそうだ。リラックスできない時に無理にリラックスしようとするのではなくて、その高鳴りに乗ってみるといいのかもしれない。少なくとも恐怖感からは逃れられる。
うちあわせCastを聞きながら、自分自身がしてきて、これからもしていきたいと思っていることと、AIの問題とはまったく触れ合いようがないと感じているのは何故なんだろうと考えていた。 https://open.spotify.com/episode/0q7rizP45VkpOhL7YIGWpG?si=7Z64nvC2QJyUKUcuNrFfDw
(少なくとも現段階での)AIのレスポンスがこの世界の中の既存のデータのパズルであったりまたはそこからの発展であるということは、一見クリエイティブな姿勢とは関係がないように感じる。
でもそういう一般論的なことはどうでも良くて、もう本当に個人的に、私はもうすでにあるものをまとめたいわけでも、解説したいわけでもなく、自分が関わることで世界の中に何かが生まれてくる瞬間だけに興味があるみたいだ。そして考えてみたら、自分の仕事の特質上、出来上がりがどこかに残ったりもしない。映像や様式は残るかもしれないけれど、そこにはもう私が本当に興味を抱いているものは残っていない。
私は、その瞬間に世界のどこにもない現象が立ち現れたらいいな、と思って仕事をしている。そしてその、抜け殻になる前の魂にしか興味がない。
(だから私は未来予測が全くできないのかな。親にも学校でも友だちにも計画を立てられるようになろうねと言われても、目の前には広大に無限が広がっていて、立ち尽くすばかり)
もちろん私は世界と関わってきたし、心を動かされてきたし、参照もしてきたので、既存のもののパズルだったり発展だったりすることと無関係ではいられないのだけど、「私というフィルターを通す」ということだけが他のどこにもない重要なことで、そのフィルターを磨くことを一生をかけてやっているつもりだからその一生をAIに取って代わらせるわけにはどうしてもいかない、それだけの話なんだろうな。
もちろん、他の人は私の代わりにAIが私の仕事をしたって構わないだろう。(つまりもし私が他からの需要を考えていたとしたら、その場は明らかに奪われる可能性がある)
でも私にとってだけはそういうわけにはいかない。それは私自身の一生をかけての仕事であって、他人にもAIにも無関係だから。決してその場を譲ったりはしない、だから、AIに代わられるというような危機感を感じることはない。
でも書いてみて改めて確認するんだけど、どれだけ私の「仕事」はどこにも求められていないんだか。他があればこそ奪われる可能性があり、その可能性がないということは他者と関係がないということになるのは皮肉だ。
2026/2/21
占星術に詳しい友人に、私が生まれたときの天体図を見せてもらった。
12の部屋のどこに星座があり、その星座に繋がりの深い惑星(または恒星や衛星)があるか、それぞれの繋がりなどがその人を表しているというもの。
2時間にもわたって話をしてくれたのだけれど、大変に興味深かった。
私はいわゆるスピリチュアルなものにとても縁深いみたいだが、自分の確信のないものに関しては簡単に鵜呑みにしたりはしない、何も断定しないで置いておくほうだ。でも自分の内面にある引っかかりとか、社会の中での自分のあり方の質(たち)とか、すごく大事なのにタッチせずにいたこと、またはあまりにも多重に蓋をしすぎてパンドラの匣みたいになっていることとか、そういうことが意識されて、面白かった。
友人は自分自身はあまり外に出ず、けれど書物や映像などから世界のことを良く観察している。ある事象とある事象のあいだにある関係を掬い取ってそこから何かを見出すことに長けているのは彼が良い読み手だからなんだろうと思う。一方でその「読み」を伝えるために言葉に変換すること自体の中にある危険性を友人は感じてもいる。友人は良い読み手であるとともに良く語彙を知っているし、文章の組み立て方もうまい、良い語り手でもある。つまり人に話を聞かせることが上手である。彼はそれをよく自覚している。
彼は言葉が何かをそのものとは少し違うものとして定義づけしてしまう性質を持っていること、その力は話者の自覚を上回って強いことも知っていて、だからこそ自分の読みを伝えた相手に時に悪い影響を与えるのではないかということも危惧している。
であればなおさら、彼にはこのことをする才覚があるんじゃないかなと思ったりする。
また別の友人には、ポリネシアで行われた核実験のときの写真を見せてもらった。地上からと空撮と、カラーとモノクロの計8枚。これは仏軍が撮影したもので外への持ち出しはもちろん禁止されていたのだけれど、彼の父がそっと保管しておいたものなのだそうだ。爆発の瞬間の丸く雲が広がるところ、雲が円形に吹き払われるところ、焔を伴ったキノコ雲が立ち上がり、厚い輪が侵食してゆく様子、臍の緒みたいに地球とつながって捻じくれてゆく雲の軸、あまりにも巨大でうつくしいような暴力。
2026/2/20
森にハンター達がやってきたのでにわかに騒がしくなった。12頭くらいの馬と、犬も20匹くらい。興奮して吠え、走り回っている。遅れてトラクターが続々と道端に停まり人が降りてくる。見学者なんだろうか。住人はハンター達にあまり好意的ではない。彼らはもちろん許可あって狩猟をしているのだけれど、鹿やイノシシが子どもを育てるシーズンにも遠慮なく森に入っていってしまう。この森は獣が増えすぎているわけでも、畑の被害が多いわけでもないのだから、いたずらに彼らを脅かすようなことは、少なくとも繁殖シーズンにはやめてほしいと住人は思っている。
そういう思いを知ってか、ハンターたちは一切住人と目を合わせようともしない。
https://gyazo.com/6671f81e8f9d968d02ef116e94b8d7d9
ピノチェト政権下のことが描かれた作品、いくつか見返したい。 2026/2/19
はじめて読む作家なのだけれど「天河」の名前に惹かれて開いてみた。天河神社には少しゆかりがあるのだ。パートナーが天河神社に行った時に神主さんに声をかけられ、座敷に招いてもらって「あなたのところの神様が挨拶をしているのでいつもはこのようなことをしないのだけれどここにお招きした」とお茶を振る舞ってもらい、帰りにも車で送ってもらったのだそうだ。天河神社は芸術の神様なのだけれど「あなたの道は深く険しいけれどこのまま研鑽しなさいと神様がおっしゃっている」とのこと。 ジャズや大衆音楽を通じて、音や音声学を追求しているアーティスト。フランスのあちこちの地域の訛を収集してそれをパフォーマンスに使っているのも興味深い。
音声学を中心に演劇や語学のワークショップをしている友人がいるので、コンサートが面白かったよという話をする。
2026/2/18
派手な喧嘩を聞いた。二人だけの関係だったらこんなにこじれないのに、みんな色んなものが肩からぶら下がっているから仕様がない。
昔のウェイン・ショーターは元気がいいな。
Kindle Unlimitedに入っている間はそんなにすごく読みたくなくてもそこから探して読もうとしてしまうので満足感はあまりない。読みたいと思う本がある時だけ入会してみるのが良さそう。かたやaudibleはバックグラウンドでも読み続けてくれるというのもあって片手間の読書が進む。
ベイルートに滞在しながら出会った様々な料理と人についての本。
編集作業中にベイルート港爆発があり、ここに記された場所や人のなかにはもう存在しないものもある。
以前は著者の震災に関する本と並行して読んだのだけれど、どちらもカタストロフ後にそれがまだ始まらなかった世界のことを思い返す、そういう行為について考えさせられた。
『Nagori』がフランスで高い評価を受けているが、そこにつながるエッセンスがあると感じる。 ある時点を、もうそこを過ぎた時間から見つめ、その距離のあいだになにがあるのか、またはそこから距離を取れない感覚のなかになにがあるのか、そのあわいのようなものを良く描写していると思う。
2026/2/17
https://gyazo.com/eb6b77f23ebde5017469c4dff53f23ff
このアルバムのツアーが近くのビーチであったのでチケットを買った。会場に行ってみるとこんなところにビョークが来るはずがないというような規模だった。足元は砂場で、みんなサンダルでビールを飲みながら前座のミュージシャンの音楽にのっている。時間になっても相変わらず他のミュージシャンが出てくるのでやっぱり行くべき会場を間違ったのかもしれないと焦り始めた頃、嘘みたいに目の前にビョークが現れて、私はずっと口を開けて体を固まらせてその声を浴びたのだった。 新しいアルバムが出ると買っていたけれど、いつのまにか聴かなくなったな。というよりは、音楽自体を積極的に聴かなくなっただけ。すごく電子的なのに、プリミティブでアコースティックなところが好きだった。
アイスランドで彼女の弟とバンドをしているひとと共演した。レイキャビクは小さい町だから、小さなライブハウスに彼女もふらりと来るのだそう。見に来てくれたらどうしようとドキドキした(こなかった)。
その場所に必要な感じになることができる。
リーダーがいなかったらリーダーに、サポーターがいなければサポーターに、めちゃくちゃ焦っている人がいれば自分は落ち着くし、みんながとても楽しそうにしているのを静かな目で眺めるのも好きだ。
✏️語学学習のための多読をしているのだけれど、つい目的を忘れて読みたい本を読もうとしてしまう。読みたい本はたいてい私の語学力ではすごくゆっくりしか読めなくて進まず全然多読にならないので、中学生くらいが読むレベルが良い。
2026/2/16
雨が付近の森を水浸しにしている。道を降りてゆくと川がどんどん太くなって小さな滝が現れ、どこかの地域は水没しているんじゃないかと心配になったところで、こちらには大きな沼があるのだと気づく。
まだ読み途中。太平洋戦争に突入した日本政府の状況を、強硬な軍上層部の迷走だと語るよりも、明治政府は組織としてまだ未熟であったが維新をくぐり抜けた人たちの仲間意識がそれを成り立たせていたのに、当人たちが去った後も人間関係に寄りかかった体制を変えることができず、結果、むしろリーダーも不在であり、意思決定を構築する構造もなかったということが書いてあって、興味深かった。
2026/2/15
https://gyazo.com/ab1deda7b3d14d5b81cb631a0bad1518
親しいからといって大勢の前で軽んじられるのは好きではない。うちの不肖の息子が…というような文化はここにないし、ただでさえ私は引っ込んでいるのだから、その上から杭を打つようなことをされると困って笑うことしかできない。
人といるとどうしても絶えずそちらに神経を張ってしまって自分に集中することができない。気を遣って無下にされて傷つくくらいなら人のことは放っておいて自分の仕事に熱中したらいいのだ。自立が出来ていない。切り替えができるように訓練しなくては。
友人に良い提案ができそうでわくわくしている。最近出版した本やこれまでの活動にテーマの重なるようなイベントに彼女を招待できるかもしれないのだ(もちろん彼女が了承するかは分からない)。
しばらくこういう類の仕事を止めていたけれど、人と人や、人の才能と場所を繋ぐことが好きだしどうやら得意みたいなので出し惜しみせずに開放してゆきたい。
ここにこうして書くようになってからみんなの日記も読んでいるのだけれど面白いですね。日記を読むことが好きだ。みんな書けばいいのに。日記。 🍽️西の海からきた牡蠣を食べた。rのつく季節は牡蠣の季節。
2026/2/14
今日はあちこちから友人が集まってきて一緒にケーキを食べた。
レモン味のメレンゲのケーキ。と、クレープ。私が作ったジャムと友人のお母さんが作ったジャムをのせて。
2026/2/13
ドキュメンタリーや科学など事実が記されているとされる書物を読む時、作者が自身のバイアスをいかに外して観察しようとし、語ろうとしているかがまずは気になる(そうでなければ取り扱う「事実」の選択自体が偏るので)。
この本のテーマとなっている子どもに対するスキンシップのように、親の行動や生育環境などの影響は長い時間をかけて現れるため因果関係の特定がしづらい。長年にわたる体のケアなどのことに関してもそうだ。人間の肉体は様々な性質をもって生まれるし、どの時点のどの要因がそれをどこに導くのかはさまざまなパターンがあり、同じことをしたつもりでも別の道を辿ることも往々にしてあるので、なかなか語るに難しいテーマだなと思ったりしつつ読みました。
わかっていないこと、特定できないことを現時点で記すこともとても大事なことだと思う。ともあれ何かが与えられたから良かった、与えられなかったら良くなかった、という断定はどんな場合においてもできないし、そのもしかしたら偏りかもしれない視点を絶えず疑う姿勢こそが「事実」のようなものを扱う時には最低限必要なのじゃないだろうか、ということを考えたりしました。
https://gyazo.com/4f86665721af900ba94287f983dc6bd1
🍽️ラザニア。
倍くらいの大きさのグラタン皿がほしいな。いっきに二食分作れる。
2026/2/12
まだ大使館の電話は通じないらしい。
さしあたって用事はないのでかまわないのだけれど、不通になって1週間くらい経つのじゃないか。今の時代にそんなことある?
オンラインミーティング。接続が悪くて一苦労した前回と違って滑らかに進む。それでも当然ながら対面の時より会話のスピードや言葉選びに気をつかう。気をつかうことで気づくのだけれど、ものの言い方が時々遠回りに過ぎるかもしれない。遠回し、ではなくて遠回り。質問に対してまず答えを返してから周辺の説明を付け加えるべきなのに、答えを直接言ってもうまく伝わる気がしなかったり、尚早な理解を避けようとするあまりいきなり脇道にそれるので、相手は一瞬「なんの話がはじまったんだ?」という雰囲気になる。そういうエゴを時には脇に置いて、簡潔に物を言う練習をしなければ。
2026/2/11
芸事において「テクニック」とは何かという話になる。
単純に速かったり高かったり粒ぞろいだったりすることを「テクニック」と呼ぶ向きもあるし、そこに自分の属性をよく反映させたり内的感覚を響かせたりがいかにできるかまでを含んでいたりもする。
人と話をするにはその前提についてまず掘り下げる必要があるのだけれど、その掘り下げはたいてい言葉によって行われるし、言葉は一応記号ということになっており共通のことを話しているよねという認識がありながらその実ほんの少しずつその視野や色合いは違うので、一緒に掘っていったつもりがたどり着いた場所は遠く離れていたなどということばかりだ。
同じ穴とまでは言わないけれど、なるべくお隣近くで穴を掘っていこうと思えば辛抱強く目の前のその相手が何を見ているのかを観察して理解しようとつとめながら、自分のバイアスをほどいていったり言外の感覚を細い手綱のようにしてじりじりと削いでいくしかない。
けれど、たいていの会話はあまりにもスピーディーでその場限りのものなので、それぞれがぽちゃんぽちゃんと小石を投げ込んで、そのことでさざなみが立ち、さざなみが収まる前にもう違う池に歩いていってしまう。
でもそれも意味のないことではなくて、小石が広げた波紋はいつまでも行ったりきたりして、再びその前に立つ時を待ってる。
2026/2/10
火をおこすという行為はまだ私にとっては新鮮で発見が多い。それは単純に手慣れていないからで、自分が打った手に対しての反応を観察しながら、小さな試行錯誤がありながらの時間だからなんだろうと思う。慣れてゆけばその粒度は細かくなってやがて意識しないまでに噛み砕かれてゆく。皿洗いとか歯を磨くこととか、パンを捏ねることとか絵を書くこととか言葉を探すこととか、歩くこととか人と話すこととか、すべての行為においてほんとうはそういうことがおこっていたのだろうけれど、そういうことはもうすべて体の奥深くに沈んでいる。極めたいことに対しては、その慣れがやってきてもさらに細かく濃く観察を続け、沸き立つような心の動きがある、ようであるのが望ましい。その火を絶えず消さずにいるためには、消さずにいようなんていう意識さえはたらかない場所にいるしかない。…かもしれない。
2026/2/9
水平線近くの紺色の硬そうな雲が一時間くらい経ってもやはり相変わらず遠くに見えて、この土地はずいぶんと平らなんだなと思う。凪のようなゆるやかなのぼりくだりを繰り返しながら時々うつらうつらした。後部座席に乗っていると前のふたりの話は捕まえられない。
休憩所にはこの土地のマスタードが並んでいる。バジル味、エストラゴンの味、赤ワインビネガーが入ったもの…七色どころではない。本のコーナーのかたわらには子供を退屈させないようにとの配慮だろう、地図やら九九やらアルファベットやらがそれぞれ書かれたカードがずらりと並んでいる。表に歴代の王様が、裏には歴代の大統領の顔が描かれているカードを眺めたが、どちらも数えるほどしか知らない。
2年に一度くらいふと連絡をくれる友人からメッセージがきた。彼女はいつも急に質問をしたり今電話できる?などのお願いをしてくるのだけど、返信をしたところで答えるでもなく(電話もかかってこない)、また2年くらい経ってまた別の質問をしてくる。そういうもんなんだなと思って答えている。
2026/2/8
語学学習は終わりのない作業ではあるのだけれど、終わりにしないために延々と遠回りをしているようなところがある。語学にとどまらず何にせよそんなふうに接しているかもしれない。心地よくて自信の持てる場所だけを細かくこまかく味わって、核心にたどり着くことを避けている。寄り道それ自体を人生にしている。今年はゴールのその先を味わうことを考える。
しかし、何かと何かとの板挟みになり続けるというのは思いの外しんどいことだ。両方の気持ちも信念もじゅうぶんに分かるからなおさら。自分自身のことだったらこんなに胸を傷めずに済むかもしれないのに。
特に何も起きずに物語が終わるんだろうな、ともうじき読み終わる頃に思った。
でもそれこそが村上春樹がこの物語との決着として選んだかたちなのかもしれない。そういう風に思ったのはガルシア・マルケスの作品を読んだ図書館の女性の、彼の作品の中には死んだ世界のものが日常と境なく登場するけれどきっと作者には実際にそれが本当に見えていて、見えているものを書いているに過ぎないんだと思う、というようなセリフを聞いた後だった。
村上春樹はいつも同じことを言っている。ストーリーや登場人物の名前は変わるけれどいつもその土台にある骨組みは一緒で、帰るところは同じ場所だ。
『世界の終わりと…』で語ったことから何ひとつ違うことを言っていない。最初は「どうして今になって敢えてこれを書いたんだろう」と思いながら読んでいたけれど、終わり近くになって、何十年も書いてきて、何十年も読まれてきて、この作家はこれを書かないわけにはいかなかったんだろうということを思った。
でも、それは、年齢を重ねてきた作家に対して私が抱きたい感想からはちょっと遠いような気もする。
彼の作品はどれも読んでみればやはり面白いんだけど、どうしても「若い頃に読んだ村上春樹」というか「あれを読んだあの時代のあのわたし」みたいな感覚から逃れることができなくて、それは何も私が村上春樹を読んだ時期がちょうど思春期くらいだったからという理由だけではなくて、いつまで経っても村上春樹は思春期みたいな人のことしか書かないなという感想と無関係ではないんじゃないかと思う。
どうしてもそこから出立できない何事かについて、いろんな角度から(時にはこの世を離れたりしながら)書いているが、その亡霊を描き切ることも、新たな命題を見つけることもできずにいつのまにか年月を重ねてしまったような、…もちろん私が感じている作家その人自身ではないのだろうけど、何かそこにいつも佇んでいる亡霊のようなもの、それがいつまで経ってもただそこに居続け、立ち去らない、かといってはっきりと見えてくることもない、曖昧に躱され続けたままだ。
何も起きなかったというのは、本当に何も起きなかったから言うのであって、物事が起きなくても内的世界では遠くまで行ける文章というものも勿論存在するのだけど、この作品に関してはもうほんとうに何も起きなかった。村上春樹という図書館の本を集めてそこに使われている単語やフレーズを抜き出して、丁寧に貼り合わせて、暖炉の前でじっくりと読んでもらったような感じだ。
別にそれがだめだったというわけではない。
でもなんだか、ああ、物語は終わったのだなと、そういう風に思う。
『世界の終わり…』が終わったからなのか、もうこの図書館に来ることもないかもしれないと思ったからなのか分からない。
ほっとしたような、物悲しいような、変な気持ちだ。
2026/2/7
今日はアープラノートなるもの(こちらです)に参加してみたのだけれど、勝手がわからないものだから人様のページをうっかり変更してしまったりして(直しました。すみません😓)おおいに冷や汗をかきました。
アープラDiscordでは主に本を読むために時々VCに滞在する(しかも無言)といううっすいメンバーなのですが、自分の場所以外のところに何かぽつぽつと書くのも面白そうかなと思って書いてみています。
しんぶんなので次のしんぶんが発行されたら古いしんぶんは消去してしまってもいいかなとも思うし、古新聞というものは押入れなどにしばらく溜め置かれるものであるような気もするのでちくちくと溜めてみるかもしれません。
3巻目がaudibleに登場したので読んでみたが、だいぶ忘れているので1巻目から復習。
ナレーションの語り口がこの文章に非常に良く合っていて良い。この方に町田康作品も読んで欲しいなと思うなど。復習だから3倍速くらいで読んでいる。そんな速さで頭に言葉を詰め込んでも大丈夫なんだろうか。とか思いながら。
✏️語学学習
友人との会話の中から苦手な文法やフレーズを拾い上げて練習している。
時間が余ったら多読を進めたかったけれど、寝る前に少しでも読めるといいな。